大正時代 常紋隧道で起きていた、異常な事件
常紋トンネルは現存し、現在も電車が通過するトンネルとして日々利用されている。
場所は北海道の北見市。
石北本線として、西留辺蘂と生田原の間に常紋トンネルは存在する。
とある事件により、心霊スポットとしてあまりにも有名になった。
1968年(昭和43年)に発生した十勝沖地震。
マグニチュード8.2の大地震であり、北海道各地に大きな爪痕を残した。
十勝沖からはるか離れた、北見市であるが震災の影響がでた。
常紋トンネルに壁面損傷が起きていた。
常紋トンネルの改修工事が開始され、1970年(昭和45年)9月、常紋駅口から3つ目の待避所の拡張工事中に、それはついに発見された。
常紋トンネル内のレンガ壁から60センチメートルほど奥の玉砂利の中から、頭蓋骨に損傷のある人骨が発見された。
埋められたタコ部屋労働者の死体
常紋トンネルの工事を行ったのは全国から集められた凶悪犯罪の囚人だった。
指示に従わなかったタコ部屋労働者が、スコップなどで撲殺され、見せしめのためにトンネル内に人柱として埋められたという話が多くの人々によって言い伝えられていた。
しかし、誰一人その事実を確認するものはいなかった。
誰かの都合によって、その現実は歴史の影に押し込まれた。
十勝沖地震によって、その隠され続けた事実が、世間の明るみに出てしまった。
関係者は重い口を開いた。
「埋められた死体は『人柱』だと伝えられている」
「まだまだ多くの死体が埋まってる」
実際に常紋トンネル周辺での工事の犠牲者は100名以上にものぼると言われている。
トンネル内で多くの人骨が発見されたが、死者が出たのはトンネル工事だけではない。
そこまでの道を作る中でも多くの死者が出ていた。
そのため、常紋トンネル外の周辺でも発掘調査が行われた。
そして、トンネル周辺の山林にある窪地で、10体の人骨が発見された。
人柱として埋めるかだけではなく、穴を掘って埋めた死体も出てきたのだ。
発掘調査の参加者は、茶褐色に変わり果てた人骨に
「無名の労働者の怒りや無念が迫ってきて、目を背けることができなかった」
と言葉を口にした。
1980年(昭和55年)11月、有志により寄付金が集められ、金華信号場西方の高台(金華小学校跡地)に石北本線を見下ろす形で『常紋トンネル工事殉難者追悼碑』が建てられた。
しかし、『常紋トンネル工事殉難者追悼碑』の設置にあたって、地元の人々からは
「怠け者のなれの果てを何で追悼するのか」
「ゴミのような人間の墓を作るより、戦没者の碑を作れ」
などの罵声的な言葉が多く飛び交ったという。
タコ部屋労働者は、当時であれ現在であれ、人間の扱いはされない。
ゴミ以下なのである。
常紋隧道(常紋トンネル)は当時から不審な現象が起きていた
常紋トンネル内では、多くの特異現象が報告されている。
電車での通行中、トンネル内で赤い火の玉が目撃された。
「まんま(飯)くんろ」という人の声が聞こえた。
夜間トンネル付近で線路をゆっくりと横切る陰が目撃された。
常紋トンネルは山奥にあるトンネルの一つで、野生生物の往来も多い。
実際に現場では、エゾシカの足跡など多く発見できる。
しかし、それとは違った、実態のよくわからない陰が常紋トンネル周囲の路線で多く目撃されている。
常紋信号場跡
常紋トンネル 歓和地蔵尊
常紋信号場跡のある位置から1kmほど下る(南方向)と、線路沿いに鮮やかな朱を纏う地蔵が見えてくる。
『歓和地蔵尊』である。
湧別線工事中、最大の難工事とされていた507mの常紋隧道(常紋トンネル)の工事は、1912年(大正元年)に始まり、3年の年月をかけ1915年(大正3年)に完成した。
工事はタコ部屋労働者によって行われた。
常紋トンネル工事中に虐殺され命を失った百数十人に及ぶ死体は、トンネル内やその付近に死んだままの姿で埋められていた。
常紋信号場が開駅してから多くの人々から異常な経験談が語られ始めた。
「火の玉が出る」
「信号が消える」
「常紋に居住している歴代の鉄道職員に病人が多く出るのも怨霊のためではないか」
このままでは、強い恨みを持った死者の魂によって
周囲の人々の生活にさらに危険が及ぶ可能性がある、、、
1959年(昭和34年)、現世をさまよい続ける魂の供養をするために、歓和地蔵尊が作られた。
入魂地蔵祭が執行された6月24日。
それ以降の6月24日には常紋トンネル 歓和地蔵尊の前で地蔵祭が行われるようになった。
当サイトの掲載画像使用に関して
当サイトの掲載画像は、フリー素材としてご使用いただけます。
詳細は以下ページよりご確認下さい。