史跡・遺跡・廃墟

日高商事跡 [北海道夕張市]

日高商事 夕張保険金殺人事件 史跡・遺跡・廃墟
夕張保険金殺人事件 南部青葉町 日高商事
南部青葉町と共に放置された、日高商事の家屋。

心霊地探索の必需品

夕張保険金殺人事件の殺人夫婦の家

北海道夕張市 日高商事 廃墟 – 夕張保険金殺人事件とは? –

夕張保険金殺人事件
その主犯、死刑になった日高夫婦の住んでいた家。
北海道夕張市南部青葉町にあったその家。
今では限界集落となった、小さな廃村。

日高商事の建物は二階建て。
住宅兼事務所となっている。
通りに面した位置に事務所の入口。
裏手が自宅の入り口となっていた。

夕張保険金殺人事件

自らの浪費と豪遊で作り出した借金を埋めるため、
保険金を目当てに放火を計画し、実行。
7名の命を犠牲にし保険金1億3801万円を手にした。
犠牲になった死者の中には、保険金と関係のない二人の子供と消火にあたった消防士も含まれている。
無差別テロとも言えるような殺人劇

1984年8月19日。
夫婦はこの家で逮捕された。
長い投獄のあと、夫婦揃って死刑となった。

事務所側入り口

日高商事の事務所側の入口。
クレジットの信用商事
シャクリーファミリークラブ
日高商事 (株)三裕代理店

日高商事 夕張保険金殺人事件
クレジットの信用商事
シャクリーファミリークラブ
日高商事 (株)三裕代理店
店頭に今も残る看板。
夕張保険金殺人事件 日高商事 薬品のボトル
建物内部は崩壊している。
床に落ちている薬品のボトルが殺人事件を連想させる。
夕張保険金殺人事件 日高商事
夕張保険金殺人事件 日高商事
曲がり傾く、建物を支えている柱。
夕張保険金殺人事件 日高商事
高級外車を乗り回していたようだが、家にはあまりお金をかけなかったのか?
設備も高級には見えない、小さく狭い家。
夕張保険金殺人事件 日高商事 事務所
事務所のトイレ
夕張保険金殺人事件 日高商事 住宅
この奥が住宅となる

住宅側入り口

通りの裏側にある住宅側の入口。

夕張保険金殺人事件 日高商事
 事務所と住居は同一の建物だが、中央部分はもう倒壊している
夕張保険金殺人事件 日高商事
住宅側の入り口。
2階の屋根は抜け落ちてもうない。
夕張保険金殺人事件 日高商事 心霊スポット
血が滲んだような、住居の屋根部分。
日高商事は心霊スポットでもあったようだ。
夕張保険金殺人事件 日高商事
玄関を入ってすぐ左は水廻り。
トイレ、洗面台、浴室。
夕張保険金殺人事件 日高商事
夕張保険金殺人事件 日高商事
天井が落ち、断熱材が散乱する
夕張保険金殺人事件 日高商事 保険金
2億円以上の保険金を受け取った人間の生活の跡。
この家で、日高夫婦はどのような生活を送っていたのか。
夕張保険金殺人事件 日高商事
当時の高級品の照明なのだろうか?
夕張保険金殺人事件 日高商事
玄関の靴箱に残された靴。
世間を震撼させた殺人鬼が使用していたものが、まだそこにある。
夕張保険金殺人事件 日高商事
夕張保険金殺人事件 日高商事 死体
狭く質素な浴室。
浴槽内にはキタキツネの死体。

夕張保険金殺人事件とは

夕張、斜陽の残照

1980年代初頭の北海道夕張市。かつて「日本随一の炭鉱都市」として栄華を誇ったこの街は、石炭産業の急速な斜陽という抗いがたい時代の波に洗われ、静かに、しかし確実に活力を失いつつあった。1970年代から相次ぐ炭鉱の閉山は、街から人を奪い、経済を疲弊させ、そこはかとない閉塞感が人々の心に影を落としていた。夕張は、日本のエネルギー政策転換の荒波をまともに受けた、忘れ去られようとする街の象徴でもあった。

この斜陽の街の影にうごめく二つの人影があった。日高安政、事件当時41歳。そして妻の信子、38歳。安政は暴力団「初代誠友会日高組」の組長であり、その半生は困窮と非行の連続であったと記録されている。一方の信子は、最初の夫と死別後、安政と出会い、夫婦で炭鉱作業員の手配師業「H興業」を営み、その経営を実質的に取り仕切っていた。彼らの会社は、実態としては安政の暴力団組織のフロント企業としての側面も持っていた。

そして、この夫婦の運命、いや、彼らが自ら手繰り寄せた運命を暗示する出来事が、すでに過去に起きていた。1981年、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生し、H興業が手配した作業員7名が命を落とす。この事故により、日高夫婦のもとには多額の保険金が転がり込んだ。この偶然とも言える(少なくとも彼らが直接事故を引き起こしたわけではない)「死によって得た金」は、しかし、彼らの金銭感覚を麻痺させ、倫理観を歪ませるには十分だったのかもしれない。一度手にした巨額の富は、彼らによって瞬く間に浪費され、再び彼らを経済的困窮へと突き落とす。その時、彼らの脳裏に蘇ったのは、かつての「成功体験」だったのだろうか。死がもたらす保険金という甘い蜜の味。それは、彼らをより直接的で、より悪質な犯罪へと誘う、悪魔の囁きとなったのである。一度、死と隣り合わせの状況から利益を得た経験は、彼らにとって保険金という解決策を常態化させ、道徳的な一線を越えることへの抵抗感を薄れさせたのかもしれない。そして、新たな金銭的破綻に直面した時、彼らはより確実な「収穫」を求めて、自ら悲劇を演出しようと企むに至ったのである。

夕張保険金殺人事件の主要人物

氏名/呼称事件における役割事件当時の年齢背景末路
日高 安政 (ひだか やすまさ)主犯41歳H興業経営、暴力団「初代誠友会日高組」組長死刑(執行済み)
日高 信子 (ひだか のぶこ)主犯38歳H興業経営、安政の妻死刑(執行済み)
I (通称。一部資料では山川 孝 やまかわ たかし)実行犯24歳日高組組員無期懲役

強欲が結んだ契約

日高夫婦が抱いた新たな野望、それは「札幌でデートクラブを開業する」という、いささか俗物的とも言える夢であった。しかし、その夢を実現するための資金は、彼らの手元にはなかった。度重なる浪費と借金で、彼らの経営するH興業は火の車だった。そこで彼らが立案したのは、複数の保険金をターゲットとした、周到かつ冷酷な詐欺計画だった。それは、H興業の作業員宿舎に火災保険をかけ、さらに作業員たちに生命保険をかけることで、文字通り「灰の中から大金を生み出す」という悪魔的な企てであった。

この計画の実行役として白羽の矢が立てられたのが、当時24歳の若者、I(一部資料では山川孝の名も伝えられる)であった。中学卒業後、いくつかの職を転々とした後、ススキノでソープランドの客引きをしていた際に安政と知り合い、日高組の組員となった。彼は安政に対して「実直に仕えていた」とされ、その忠誠心、あるいはヤクザ組織の力関係の中で培われた従属的な立場が、安政によって巧みに利用されることとなる。安政はIに対し、H興業の作業員宿舎への放火を指示。その見返りとして約束された金額は500万円。当時のIにとっては大金であったろうが、日高夫婦が手に入れようとしていた保険金の総額からすれば、ほんのはした金に過ぎなかった。

犯行の舞台として選ばれたのは、夕張市鹿島栄町にあったH興業の作業員宿舎。元は鹿島旅館という名の古い建物だった。自らが管理する建物と、そこに寝泊まりする従業員たち。日高夫婦にとって、そこは保険金詐取という名の「収穫」を最大化できる、格好の狩り場であった。この計画が成功すれば、火災保険金と死亡保険金を合わせて1億3800万円もの大金が転がり込む算段だった。その金額の大きさが、彼らの強欲の深さを物語っている。

日高夫婦、特にヤクザの組長という立場にあった安政は、Iとの間に存在する圧倒的な力関係を利用した。それは対等な共犯関係ではなく、年長者であり、組織のトップである安政が、若く、組織内での立場も弱いIを巧みに操り、取り返しのつかない犯罪へと引きずり込んだ構図であった。約束された報酬は、Iを動かすための餌であり、日高夫婦にとっては、はるかに大きな利益を得るための計算された投資に過ぎなかったのである。彼らはIを、目的達成のための単なる道具としか見ていなかった。

七つの魂が消えた夜 (1984年5月5日)

運命の日、1984年5月5日。その日、H興業の作業員宿舎では、表向きは和やかな宴が催されようとしていた。実行犯Iは、数日前から新人作業員を装って宿舎に入寮。そして、自らの発案で「自身の入寮祝い」と称して宴会を開き、他の作業員たちが酒に酔いつぶれるのを待つという、周到な計画を実行に移した。それは、後に起こる惨劇を前にした、欺瞞に満ちた静けさであった。

夜が更け、宴も終わり、人々が寝静まった午後10時50分頃。Iは行動を開始した。新聞紙に火をつけ、宿舎の障子や襖に燃え移らせると、乾燥した古い木造の建物は瞬く間に炎に包まれた。I自身は、犯行後、2階から飛び降りて両足骨折の重傷を負いながらも「脱出」。これは、自らも被害者の一人であるかのように装うための偽装工作だったのかもしれない。

紅蓮の炎が夜空を焦がす中、罪のない命が次々と奪われていった。犠牲となったのは、H興業の男性作業員4名(当時57歳、51歳、49歳、46歳。そして、住み込みで働いていた寮母の13歳の長女と11歳の長男。彼らは、日高夫婦の強欲な計画とは何の関係もない、何の罪もない子供たちだった。さらに、消火活動中に宿舎が倒壊し、24歳の消防士1名も殉職した。焼け跡からは、犠牲者たちの「焼死体」が発見された。合計7つの尊い命が、一瞬にして失われたのである。

日高夫婦がこのような残虐な計画を立案し、Iが(当初は)それを実行に移すことができた背景には、彼らが宿舎にいた人々を、感情や未来を持つ人間としてではなく、単なる保険金を得るための道具、あるいは障害物としか見なしていなかったという、恐るべき精神構造があったと言わざるを得ない。特に、保険金とは直接関係のない子供たちまでもが犠牲になることを容認していた事実は、彼らの人間性の欠如を如実に示している。作業員たちを酔わせるために宴会を催すという手口も、彼らを無防備な標的として扱う冷酷さを物語っている。後にIが自責の念に駆られることになるのとは対照的に、少なくとも計画段階において、日高夫婦の心に犠牲者への共感や躊躇があったとは考えにくい。

偽装された事故、燃え上がる良心

惨劇の翌朝、焼け跡には言葉にならないほどの荒涼とした光景が広がっていた。当初、警察の現場検証では、火災の原因はジンギスカン鍋か石油ストーブの不始末によるものと判断され、事件性はないとされた。日高夫婦の計画は、まんまと成功したかのように見えた。そして、彼らのもとには、狙い通り、火災保険金と死亡保険金合わせて1億3800万円という大金が転がり込んだ。しかし、この血塗られた金もまた、彼らの浪費癖によって、わずか1ヶ月ほどでほとんど使い果たされてしまう。それは、彼らを再び犯罪へと駆り立てた、救いようのない強欲と刹那的な金銭感覚の現れであった。

一方、実行犯Iの心の中では、別の炎が燃え上がろうとしていた。犯行時に負った両足の骨折で入院していたIは、肉体的な苦痛と共に、精神的な苦悩を深めていく。日高夫婦は、約束した500万円の報酬のうち、わずか75万円しかIに支払わなかった。この裏切りは、Iの日高夫婦に対する不信感を決定的なものにした。「日高夫婦から約束の報酬が支払われず、2人への信用を失ったこと」が、彼の心境に大きな変化をもたらす。

さらにIを追い詰めたのは、口封じのために殺されるのではないかという恐怖だった。「事件の真相を知っている自分が口封じのために殺されるのではないかという疑心暗鬼に陥ったこと」。彼は、かつて組から逃げた組員が連れ戻され、指を切り落とされたという話を聞いており、ヤクザ組織の非情な掟を知っていた。

そして何よりもIを苛んだのは、自らの手で、保険金とは何の関係もなかった二人の子供たちの命まで奪ってしまったことへの耐え難い罪悪感だった。「自分の放火によって保険金と無関係だった子供2人の命まで奪ってしまったことにずっと罪悪感を感じ続け、その罪悪感に耐えられなくなったことも、自首した理由の1つだったと述べている」。

日高夫婦が血染めの金を浪費し、何ら良心の呵責を見せることなく過ごしていたのとは対照的に、Iは裏切りへの怒り、生命の危機への恐怖、そして何よりも罪のない命を奪ったことへの罪悪感に苛まれ続けた。この対照的な心理は、彼らの人間性の違いを浮き彫りにする。Iの心の中では、犯した罪の重さと、奪われた幼い命への想いが、次第に恐怖や怒りをも凌駕していったのである。彼の人間性は、一度は大きく損なわれたものの、完全には失われていなかった。その苦悩こそが、事件解決への唯一の道筋を開くことになる。

解ける糸口

Iの心中の葛藤は、やがて限界に達した。入院していた病院から突然姿を消したのである。それは、彼の内なる危機が臨界点を超えたことの証左だった。北海道を離れ、青森県へと逃亡したI。しかし、逃避行の先にも心の安寧はなかった。

裏切り、恐怖、そして何よりも子供たちを死なせてしまったという耐え難い罪悪感。これらの感情がないまぜとなり、Iはついに決断を下す。事件から約2ヶ月後、青森県内から夕張警察署に電話をかけ、自らの放火を自供したのである。青森県警はIに任意同行を求め、彼はそこで事件の全てを語った。

Iの自供は、日高夫婦が放火を指示したことを明確に告げるものだった。これにより、一度は事故として処理された火災は、一転して殺人及び保険金詐欺事件として再捜査の対象となった。そして1984年8月19日、日高安政と信子夫妻は逮捕された。こうして、「前代未聞の保険金殺人が起きた」と後に報じられる事件の全貌が、徐々に白日の下に晒されることになった。

捜査の最大の柱は、言うまでもなくIの供述であった。警察は、彼の供述を裏付けるために、改めて火災現場の検証、保険金の流れ、日高夫婦の金の使い途などを徹底的に洗った。特に、事件後に日高夫婦が手にした大金と、それを短期間で浪費した事実は、状況証拠として重要視されたはずだ。警察にとっての最大の課題は、Iの供述の信憑性を確保し、日高夫婦が放火を具体的に指示したという事実を立証することであった。

日高夫婦の計画は、当初は巧妙に偽装され、成功したかに見えた。しかし、彼らの計画の根幹には、実行犯Iという人間が存在していた。そのIの良心、そして彼らが犯した裏切りという行為が、結果として彼ら自身の破滅を招いたのである。これは、弱者を搾取し利用する犯罪がいかに不安定な基盤の上に成り立っているかを示している。深い罪悪感と裏切られたという思いは、いかなる忠誠心や恐怖心にも勝る力となり得るのだ。

法廷の冷厳な光

事件の真相究明の舞台は、法廷へと移された。札幌地方裁判所で開かれた公判で、検察側は日高夫婦の「明白な殺意」を主張した。その論拠として、被害者たちを酒に酔わせた上で宿舎に放火したという計画性の高さを挙げ、「未必の故意」、すなわち、放火の結果として死者が出る可能性を認識しながらもそれを容認していたと断じた。

これに対し、日高夫婦は殺意を否認した。夫の安政は「火災保険金さえ手に入ればよかった」と述べ、6人の犠牲者全員に対する殺意を否定。妻の信子も、酒癖の悪かった作業員1名についてのみ「未必の故意」を認めたものの、他の犠牲者については否定した。夫婦は共に、「犠牲者が出ないようにと指示したのに、実行犯Iが言いつけを守らなかった」と主張し、責任を実行犯に転嫁しようと試みた。公判の最大の争点は、この「死亡した6人に対する被告らの殺意の有無」であった。

裁判所は、この争点に対し、検察側の主張をほぼ全面的に認める判断を下した。判決では、日高夫婦と実行犯Iとの間で「放火の結果、焼死者が出てもやむを得ないと認容していた」として、焼死した6人全員に対する未必の殺意を認定した。その結果、日高安政と信子夫妻には死刑判決が言い渡された。一方、実行犯I(山川孝)には、無期懲役の判決が下された。Iは控訴せず、この判決を受け入れた。日高夫婦は判決を不服として、即日札幌高等裁判所に控訴した。

この裁判における「未必の故意」の認定は極めて重要である。日高夫婦は直接手を下したわけではなく、彼らの主たる目的が保険金であったとしても、人が居住する建物への放火という行為が、高い確率で死者を生むことを認識し、それを容認した上で計画を実行したと判断されたからだ。この法的概念は、直接的な殺害行為を行わない首謀者であっても、その計画が予見可能な死をもたらす場合、その責任を厳しく問うことを可能にする。日高夫婦が試みた、犠牲者の死から距離を置こうとする弁明は、この「未必の故意」の認定によって打ち砕かれたのである。

破滅への最後の賭け

札幌高等裁判所で始まった控訴審は、4回の審理が開かれた。しかし、1988年10月、日高夫婦は突如として控訴を取り下げ、自ら死刑判決を確定させるという驚くべき行動に出た。

この不可解な行動の背景には、当時の社会情勢と、彼らが抱いたある種の「期待」があった。当時、昭和天皇は重篤な状態にあり、「陛下ご逝去にともなう恩赦の対象に死刑確定囚が含まれるという噂」がまことしやかに流れていたのである。過去、明治天皇や大正天皇が崩御した際には、恩赦によって殺人犯が減刑された例があったことも、彼らの淡い期待を後押ししたのかもしれない。日高夫婦は、「恩赦の対象となるには刑が確定していなければならない」と考え、一縷の望みを託して控訴を取り下げたのであった。

しかし、この最後の賭けは、無残な結果に終わる。1989年1月7日、昭和天皇が崩御。だが、日高夫婦が期待したような、死刑確定者に対する大規模な恩赦は行われなかった。そもそも、彼らが犯した保険金詐取を目的とした放火殺人という凶悪犯罪は、仮に恩赦があったとしても対象外となる可能性が高かったのである。減刑令(昭和27年政令第118号)第7条の規定によれば、殺人罪の中でも強盗や放火などの併合罪を伴う殺人行為は恩赦の対象外とされていた。この控訴取り下げにより、日高信子は戦後の日本では4人目の女性死刑囚となった。

死刑という厳然たる現実を前にして、日高夫婦が噂や不確かな希望にすがり、控訴を取り下げるという選択をしたことは、彼らが最後まで現実から目を背け、自己の犯した罪の重さと向き合うことを拒否したかのようにも見える。それは、法廷闘争による正当な権利の行使ではなく、ある種の迷信的な賭けであり、彼らの精神が追い詰められた末の、常軌を逸した行動であったと言えるだろう。ヤクザとしての生き様の中で培われたかもしれない、一か八かの勝負に賭けるという思考が、このような破滅的な決断へと彼らを導いたのかもしれない。

最後の審判

死刑が確定してから、刑が執行されるまでの日々。それは、日高夫婦にとって、死と向き合う長い時間であったはずだ。1988年に死刑が確定してから、実際にその時が訪れるまでには、約9年の歳月が流れていた。

そして、1997年8月1日、札幌刑務所において、日高安政と信子夫妻の死刑が絞首刑によって執行された。戦後日本では初めて夫婦揃って死刑が執行された例となり、また、妻・信子の死刑執行は、1970年の杉村サダメ死刑囚以来27年ぶり、戦後3例目の女性死刑囚の執行として記録された。

一方、実行犯として無期懲役の判決を受けたIは、刑務所での長い服役生活を送ることになった。彼の自供が事件解決の鍵となったことは事実だが、それが彼自身の刑を死刑から無期懲役へと減じる一因となった可能性は否定できない。しかし、彼が生涯背負い続けるであろう罪の重さは、刑期だけでは測れない。「自分の放火によって保険金と無関係だった子供2人の命まで奪ってしまったことにずっと罪悪感を感じ続け」たという彼の言葉は、刑務所の壁を越えて響き続ける、魂の叫びのようにも聞こえる。

日高夫婦の死刑執行は、国家による最終的な断罪であり、彼らの物語に決定的な終止符を打った。それは、近代日本の刑事司法史においても特筆すべき出来事であった。対照的に、Iは生き続けることによって罪と向き合い続ける運命を背負った。首謀者と実行犯、それぞれの役割と責任に応じて下された法的な帰結は、罪の重さと人間の良心について、重い問いを投げかけている。法は首謀者たちに究極の罰を与えたが、実行犯は自らの良心という、もう一つの法廷で裁かれ続けるのかもしれない。

忘れられた街の傷痕

夕張保険金殺人事件は、単に凶悪な犯罪としてだけでなく、それが起きた街、夕張市の歴史にも深い傷跡を残した。日高夫婦が経営していたH興業は、彼らの逮捕と共に業務を停止し、そのまま倒産、廃業へと追い込まれた。

事件の現場となった作業員宿舎の跡地は、事件後長らく放置され、草木が生い茂る空き地となっていた。そして、その鹿島栄町一帯は、後に夕張シューパロダムの建設に伴い、全住民が移転して無人となり、2014年3月のダム試験湛水開始によって、完全に水没した。物理的に犯行現場が消滅したことは、あたかも街が暗い過去を葬り去ろうとしているかのようにも見える。

しかし、日高夫婦が自宅兼事務所を構えていた夕張市南部青葉町の建物は、彼らが処刑されてから20年以上が経過した2018年時点でも、北海道特有の厳しい風雪に耐え、半壊しながらも廃墟としてその姿を晒していた。それは、事件の記憶を風化させまいとするかのように、街の一角に禍々しい存在感を放ち続けていた。

この事件は、炭鉱の閉山による経済の衰退という、夕張市が直面していた大きな苦難の歴史の一コマとして、より暗い影を落としている。2007年には夕張市が財政破綻し、職員の大量退職や給与削減が行われるなど、街の苦境は続いた。

「罪のない人間7人を殺害したヤクザカップルの身勝手」と評されたこの事件は、金銭的困窮と歪んだ欲望が、いかに人間を非道な行為へと駆り立てるかという恐ろしい実例を示している。特に、何の罪もない子供たちや、人命救助のために殉職した消防士の犠牲は、日高夫婦の非人間性を際立たせる。

作家の大渕基樹氏は、この事件で亡くなった幼馴染の大山満(愛称ミイ)の死をきっかけに夕張を訪れ、事件の悲劇と夕張の衰退を重ね合わせて記録している。ミイは当時、日高夫婦(大渕氏の記述では高村康正という名が使われている)のもとで働いており、アルコール依存症に苦しんでいたという。

夕張保険金殺人事件は、物理的な傷跡(廃墟と化した事務所)と、目に見えない傷跡(人々の記憶、街の評判、遺族の悲しみ)の両方を地域社会に残した。そして、犯行現場がダムの底に沈んだとしても、この事件の物語は、経済的困難の中で起きた人間の暗黒面の顕現として、また、失われた多くの命への鎮魂の祈りとして、語り継がれていくのだろう。それは、夕張という街が背負うことになった、もう一つの重い十字架なのである。


主要年表

年月日主要な出来事
1981年北炭夕張新炭鉱ガス突出事故発生。日高夫婦、作業員死亡により保険金を得る
1984年5月5日H興業作業員宿舎にて放火殺人事件発生。7名死亡
1984年7月頃実行犯I、青森県内から警察に自首・供述
1984年8月19日日高安政・信子夫妻、逮捕
(裁判開始年不明)札幌地方裁判所にて公判開始
(判決年不明)札幌地方裁判所、日高夫妻に死刑、実行犯Iに無期懲役の判決
1988年10月日高夫妻、札幌高等裁判所への控訴を取り下げ、死刑確定
1989年1月7日昭和天皇崩御。日高夫妻が期待した恩赦は行われず
1997年8月1日日高安政・信子夫妻、札幌刑務所にて死刑執行
2014年3月夕張シューパロダム試験湛水開始。事件現場の鹿島栄町が水没

日高商事の詳細情報

所在地北海道夕張市南部青葉町

日高商事の周辺マップ

航空写真

ストリートビュー

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