雷電海岸に消えた約束:北海道「雷電温泉かとう」の興亡史、その終焉と周辺の記憶
来年の約束、無人の断崖 — 雷電海岸に刻まれた栄枯盛衰の記憶
日本海に面した北海道・岩内町の雷電海岸は、訪れる者を圧倒する峻厳な風景で知られる。
新第三紀の溶岩と火山砕屑岩が日本海の荒波によって絶えず侵食され、現在では比高150メートルを超える壮大な断崖絶壁(海食崖)を形成している。
この地で見る「雷電の夕日」は、弁慶の伝説を宿す奇岩「刀掛岩」のシルエットを黄金色に染め上げ、北海道の自然の厳しさと美しさを凝縮した絶景として語られてきた。
しかし、この永遠の相を呈する自然景観とはあまりにも対照的に、同じ海岸線には人間の営みの「死」を象徴する光景が広がっている。
それが、打ち捨てられた「廃旅館群」である。
かつて国道229号線の開通と共に一大温泉郷として賑わったこの地は、今や静まり返っている。
「雷電温泉かとう(ホテル観光かとう)」は、この地で勃興し、わずか半世紀でその役割を終えた温泉郷の夢の残骸であり、その栄枯盛衰を最も雄弁に物語る存在である。
この地の歴史を深く掘り下げる時、我々は単なる一軒の旅館の倒産史を追うのではない。
雷電という土地の地質学的な「永続性」や、数百年にわたり語り継がれてきた伝説の「永続性」と、1963年(昭和38年)に始まり2019年(令和元年)に完全に終焉した「雷電温泉郷」という事業の「刹那性」との、劇的な対立を目の当たりにする。
「観光かとう旅館」の歴史 — 誕生から閉館までの50年
1. 誕生と繁栄 (1963年~1990年代)
「観光かとう旅館」の歴史は、雷電温泉郷そのものの歴史とほぼ同義である。
その開業は1963年(昭和38年)に遡る。
この年は、雷電地区にとって運命的な年であった。
雷電温泉郷は「1963年に開通した国道229号線開通と同時に」温泉宿が開業した。
この事実は、「かとう」の誕生が、温泉が自然に湧出したからという内発的な理由ではなく、国道開通というインフラ整備を前提とした、明確な「観光開発」という経済的・人為的な意図によって計画されたことを示している。
換言すれば、「かとう」は誕生の瞬間から、札幌や小樽といった都市圏からのマイカーおよび観光バスによる団体客を迎え入れる「モータリゼーションの申し子」だったのである。
その施設は、まさにこの目論見を体現していた。
日本海を眼下に見下ろす絶好のロケーションに、「展望大浴場」および「展望露天風呂」、さらには「サウナ」といった、当時の団体旅行客のニーズを満たすための設備を完備していた。
泉質は石膏泉で、リウマチ、神経痛、皮膚病、疲労回復などに効能があるとされ、日帰り入浴も積極的に受け入れていた。
当時の大人料金は500円だった。
順調に営業を続けた「かとう」は、1993年(平成5年)に改築を行っている。
これはバブル経済が崩壊した直後ではあるが、その影響が地方観光業に致命的な打撃を与える前の、最後の「良き時代」の面影が残る時期であった。
この改築は、昭和の団体旅行モデルから、平成の個人・家族旅行へのシフトという市場の変化に対応しようとした、最後の大型投資であったと推察される。
しかし、その後の歴史が示すように、この投資は時代の大きなうねりを乗り越えるには十分ではなかった。
2. 衰退と終焉 (2000年代~2012年)
2000年代に入ると、雷電温泉郷の経営環境は急速に悪化する。
その決定的な転機となったのが、2007年(平成19年)5月の、目の前に建つ「ホテル雷電」の廃業である。
「ホテル雷電」は、温泉郷で「最も大規模なホテル」であった。
商業施設における「アンカー・テナント(核となる店舗)」が撤退すれば、その施設全体が急速に衰退するのと同様に、温泉郷の「顔」であった最大手ホテルの倒産は、雷電温泉郷全体のブランドイメージを失墜させ、共同で維持していたインフラ(例えば、岩内町営の分湯所)の維持コスト負担増を招くなど、壊滅的な打撃を与えた。
この時点で、雷電温泉郷という「共同体」の死は、すでに始まっていた。
「観光かとう旅館」は、主要な集客装置を失い「ゴーストタウン」化し始めた温泉郷の中で、孤軍奮闘を余儀なくされた。
しかし、その奮闘も長くは続かなかった。
アンカー・テナントの喪失から5年後、「観光かとう旅館」は2012年(平成24年)7月に廃業した。
雷電温泉郷の誕生と運命を共にした「かとう」は、その50年の歴史に幕を下ろしたのである。

雷電温泉郷の完全なる消滅 — なぜ「かとう」は生き残れなかったのか
「かとう」の閉館は、ドミノ倒しの序章に過ぎなかった。
なぜ雷電温泉郷は、一軒の宿も残すことなく「完全なる消滅」に至ったのか。そのプロセスと構造的要因を分析する。
1. 温泉郷の「死」のタイムライン
雷電温泉郷は、立地によって大きく二つのエリアに分かれていた。
国道229号線沿いの海岸エリア(「かとう」や「ホテル雷電」が位置)と、そこから山側へ入ったエリア(「みうらや温泉旅館」や秘湯「朝日温泉」が位置)である。
そして、この二つのエリアは、異なる形で「死」を迎えた。
- 山側の「物理的な死」: 2010年(平成22年)、土砂災害が発生し、山側の秘湯「朝日温泉」へ至る唯一のアクセス道路が通行止めとなった。
この道が「復活することなくずっと閉鎖されたまま」となったことで、朝日温泉は営業継続が物理的に不可能となり、閉鎖に追い込まれた。 - 海岸側の「経済的な死」: 海岸エリアでは、経済的な要因による連鎖倒産が続いた。2007年の「ホテル雷電」、2012年の「かとう」に続き、「ホテル雷電」を改装して再オープンした「ホテル八一」も、わずか1年で廃業に追い込まれている。
そして2019年(令和元年)、最後まで営業を続けていた山側の「三浦屋旅館」が閉館した。
最盛期には9軒もの宿があったとされる雷電温泉郷から、すべての灯が消えた瞬間であった。
2. 衰退の構造的要因:致命的な「3つの要因」
「かとう」を含む雷電温泉郷の完全なる消滅は、単一の理由によるものではなく、複数の要因が複合的に絡み合った「構造的な敗北」であった。
その要因は、大きく3つに分類できる。
1. 市場の変化(ビジネスモデルの陳腐化)
「かとう」の「展望大浴場」に象徴される、昭和の団体旅行モデルは、全国的に終焉を迎えていた。
札幌市の定山渓温泉等と同じ傾向であり、企業や団体の保養所需要は激減し、旅行の形態は「団体」から「個人」へ、画一的なサービスから高付加価値な「体験」へと移行した。
国道沿いに立ち並ぶ大型旅館という「かとう」のビジネスモデルは、この市場の変化に根本的に対応できなかった。
2. 地理的孤立(観光ルートからの逸脱)
雷電温泉郷は、「観光ルートから大きく外れている」という致命的な弱点を抱えていた。
ニセコ、小樽、函館といった北海道観光の主要ハブからのアクセスが悪く、それらの間を繋ぐ中継地としても機能しなかった。
「わざわざ雷電に泊まる」という強い動機付けを提供できないまま、観光客の主要な動線から取り残されていった。
3. 地質的リスク(高すぎる維持コスト)
雷電海岸の壮大な景観は、同時に経営上の「負債」でもあった。
この地域は火山砕屑岩類からなる海食崖であり、地層が海側に傾斜した「受け盤構造」となっているため、落石が非常に発生しやすい。
特に冬期の凍結と春の融雪期には、岩盤の亀裂が拡大し、危険性が増大する。
2010年の土砂災害は、この地質的リスクが現実化したものに他ならない。
この脆弱な地質は、道路や建物のインフラ維持に恒常的な高コストを要求し、旅館経営の足かせとなり続けた。
「かとう」は、時代遅れのビジネスモデル(市場の変化)を、不利な立地(地理的孤立)と危険な場所(地質的リスク)で続けた結果、必然的に破綻したのである。
雷電温泉「かとう」の「今」 — 廃墟から解体へ

2012年7月の廃業後、「観光かとう旅館」は新たな、そして最後のフェーズへと移行した。
1. 廃墟としての「かとう」 (2012年~2020年頃)
営業を停止した「かとう」は、管理されることもなく、急速に風化していった。
海岸沿いに並ぶ他の廃業施設(「ホテル雷電」など)と共に「廃旅館群」の一角を形成し、その姿は国道229号線を通るドライバーの目に、一種異様な光景として映った。
2020年秋以前の訪問記録によれば、建物は「草木がひどくて行くのも大変」な状態であったと報告されており、自然の侵食が急速に進んでいたことが窺える。
2. 解体作業の開始と跡地の未来 (2020年頃~)
この「廃墟」としての停滞期は、2020年秋頃に終わりを迎える。
「解体が始まった」との情報が流れ始めたのである。
2021年以降の映像記録などでは、重機が入り、建物の取り壊しが進められている様子が確認できる。
興味深いことに、ある訪問者は「(以前は草木がひどかったが)解体が始まると整備されるので行きやすかったです(^^;」と報告している。
これは、解体という「死」のプロセスが、皮肉にも「かとう」という存在を社会の管理下に取り戻し、その最後の姿を公の場に可視化させたことを示している。
「かとう」は、「禁忌」の対象であった廃墟から、公的な「作業現場」へとその姿を変え、物理的な消滅へのカウントダウンに入った。
2024年現在、解体作業は進み、かつての賑わいを知る建物は更地へと還りつつある。
跡地の将来について、関係者は「ただの平地になるのか?新たな建物ができるのか?気になるところです」と語っており、具体的な計画は明らかになっていない。
周辺情報 — 雷電海岸の自然と伝説
「かとう」が立地した雷電海岸は、その経営を支えたと同時に、その経営を脅かし続けた、二面性を持つ土地である。
その自然環境と、この地に根付く深い伝説を詳述する。
1. 荒々しき大地の造形:雷電海岸の地質学
雷電海岸は、岩内町と蘭越町の境界にまたがる海岸線である。
その特徴は、前述の通り、比高150m以上に達する断崖絶壁(海食崖)である。
この地形は、新第三紀の溶岩や、火山角礫岩・凝灰角礫岩といった火山砕屑岩類が、日本海の激しい波浪によって削り取られて形成された。
この地質は、落石や崖崩れの常襲地帯であることを意味する。
特に、岩盤の亀裂に染み込んだ水が冬期に凍結して膨張し、亀裂を押し広げる「凍結膨張作用」の影響は甚大である。
春の融雪期にこの緩んだ岩盤が崩落するリスクは極めて高く、これが2010年の土砂災害や、日常的なインフラ維持の困難さに直結している。
2. 義経と弁慶の伝説が息づく地

この厳しくも美しい海岸線は、古くから伝説の舞台となってきた。
弁慶の刀掛岩
岩内町のシンボル的な存在が「弁慶の刀掛岩(べんけいのかたなかけいわ)」である。
その名は、源義経の従者である武蔵坊弁慶がこの地で休息した際、あるいは海岸で釣りをする際に、その大刀を掛けたという伝説に由来する。
その岩の形状は、まさに「太刀を掛けた形」をしていると描写されている。
地名の由来となった義経伝説
「雷電」という地名そのものにも、悲しい義経伝説が関連している。
伝説によれば、津軽から船で渡った義経主従は、寿都を経てこの雷電・岩内の地に至った。
この地でアイヌの酋長チパの娘メヌカは義経を深く慕うようになる。
しかし、大志を遂げるため義経主従は旅立たねばならなかった。
別れを惜しむメヌカに対し、義経は「来年また必ず来る」と約束した。この「らいねん」という言葉が、この地の名「らいでん(雷電)」の由来になったと伝えられている。
だが、1年経っても義経は戻らなかった。絶望したメヌカは断崖から身を投じ、その岩は「メヌカ岩」と呼ばれるようになった。
この悲劇は、積丹半島の神威岬(カムイミサキ)に伝わる「和人の女性が乗った船は難破する」という伝承にも繋がっているとされる。
この「雷電」の地名由来は、単なる周辺情報に留まらない。
「希望的な約束(=来年)」と、「果たされないままの死(=メヌカの投身)」というこの地の根源的な物語は、奇しくも「雷電温泉かとう」を含む温泉郷の運命を予言していたかのようである。
1963年の国道開通と共に約束された「来年の繁栄」は、時代の変化という抗いがたい力によって果たされることなく、2019年の「完全な死」を迎えた。
メヌカの悲劇は、この地で半世紀を経て、現代の経済的な形で繰り返されたとも言える。
なお、「岩内」の地名は、アイヌ語の「イワウナイ(硫黄川)」を語源としている。
雷電地区の現在と今後の展望 — 「かとう」の死が意味するもの
「観光かとう旅館」が解体され、温泉郷が地図から消えた今、雷電地区は新たなフェーズに入っている。
1. 残されたインフラと新たな活用
「かとう」をはじめとする旅館群は消えつつあるが、それらが利用していたインフラの一部は、新たな形で利用されている。
かつて温泉郷の日帰り入浴客や宿泊客で賑わった国道沿いの大型駐車場は、現在、その主たる利用者を失った。
しかし、完全に無用となったわけではなく、「主に目の前の海岸で釣りをする人向けの駐車場」として機能している。
さらに注目すべきは、2021年(令和3年)の「雷電展望台」の再整備である。
この展望台は、温泉郷が賑わっていた1967年(昭和42年)に高台に設置されたものだが、温泉郷の衰退と共に放置されていた。温泉郷が「完全消滅」した2019年の、わずか2年後に、この展望台が再整備されたという事実は極めて重要である。
これは、地域が雷電の観光戦略を、コストのかかる「宿泊滞在型」から、低コストで運営可能な「通過・立ち寄り型」へと、完全に舵を切ったことを示す明確なシグナルである。
「かとう」のような大規模な宿泊・入浴施設(=重厚長大型インフラ)の維持は不可能と判断された。
しかし、釣り人や、夕日・景観目当てのドライバーが立ち寄るための、駐車場や展望台といったインフラの価値は「再発見」されたのである。
2. 結論:解体は「終わり」ではなく「始まり」である
「雷電温泉かとう」の50年の歴史は、国道開通と共に生まれ、昭和の団体旅行ブームの波に乗り、そして時代の変化と地理的・地質的要因の複合によって、その波に対応できずに消えていった、日本の地方温泉観光の典型的な盛衰史であった。
「かとう」の解体は、単なる廃墟の処理ではない。
それは、メヌカの伝説に始まる「果たされなかった約束(=宿泊型リゾート)」の時代に、物理的に終止符を打つ行為である。
「かとう」が更地になることで、雷電海岸は、かつて義経や弁慶が(伝説上)目にしたであろう、人間の建造物に遮られない「本来の」自然景観を取り戻しつつある。
皮肉なことに、「かとう」の「死」と「解体」は、この土地が「雷電の夕日」や「刀掛岩」といった、より永続的な価値を持つ観光資源として再生するための、必要な「浄化」のステップであったのかもしれない。
「かとう」の跡地が今後どうなるかは不明だが、それがどのような形であれ、かつて「来年」の約束が破れたこの地で、今度は持続可能な、身の丈に合った未来が描かれることを期待する。




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