雄別炭鉱病院 探索動画
雄別炭鉱事故で傷ついた人々を見届けた雄別炭鉱病院

雄別炭鉱の最盛期には雄別地区だけでも1万5千もの人口がありました。
そんな地域の暮らしを支えていた雄別炭鉱病院。
今も誇らしげにその勇姿を、雄別の自然の中に残しています。
特徴的な、開放的なスロープ。
当時はガラス窓から、光が差し込み、明るく院内を照らしていたことでしょう。
廃墟になりながらも、今なお美しい雄別炭鉱病院。
雄別炭鉱の歴史と、雄別炭鉱病院
A. 炭鉱町の隆盛
雄別炭鉱は、明治36年(1903年)に本格的な採炭が開始された 。その後、大正8年(1919年)に北海炭礦鉄道株式会社が設立され、翌年には鉄道敷設と炭鉱開発が着手、大正12年(1923年)に鉄道が完成し操業が開始された 。大正13年(1924年)には三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)が買収している 。昭和30年代後半には出炭量が年間60万トンを超え、最盛期には雄別地区に9000人以上の住民が暮らす一大コミュニティを形成した 。この事実は、後にゴーストタウンと化す町の規模を物語っている。
B. 雄別炭鉱病院:生命線にして証人
設立と変遷
雄別炭鉱病院の起源は、昭和10年(1935年)2月、雄別緑が丘地区に鉱業所従業員及びその家族の診療を主として開設された診療所に遡る。それが雄別炭砿診療所。それ以前は個人開業の医院のみであった。昭和14年(1939年)には旭町に移転し、雄別炭鉱病院となった。当初は木造平屋建てで、医師6名、看護師13名で発足した 。その後、昭和28年(1953年)には2階建てに増築されている。

設立当時の木造の炭鉱病院であった、雄別炭鉱病院。その建物は1968年9月、火災で全焼。その時期には、現在残る鉄筋コンクリートの建物が建設されており、1968年12月に完成。建設費用は1億1200万円。当時の東京と大阪にあった、年金病院を参考に設計された、中央の回り斜廊が特徴のバリアフリー建築であった。
規模と診療体制
病院は内科、外科、産婦人科、小児科、眼科耳鼻科、そして後に整形外科を設置し、総合病院の形態を整えた 。延べ面積は6,550平方メートル、病床数は88床を有していた 。職員構成は医師6名、歯科医師1名、薬剤師1名、看護師25名、その他28名であった 。患者数が最も多かったのは昭和40年(1965年)で、外来患者14万4478名、入院患者2万1067名を記録しており、地域医療におけるその重要な役割を裏付けている。雄別炭砿病院は単純な診察だけでなく、児童から、炭鉱夫、老人の健康診断、各種予防接種など、近隣地域の健康を支える重要な施設でした。
隔離病棟の存在
特筆すべきは、昭和27年(1952年)12月、北海道で赤痢の集団発生が発生。雄別地区でも赤痢が集団発生したことを受け、病院横に村立隔離病棟が併設されたことである 。この隔離病棟は18床(総病床数88床の一部)を有し、収容人員は45名、費用は町と病院により委託経営された 。伝染病に対応するための隔離病棟の存在は、病院の歴史に暗い一面を加えている。
C. 衰退と終焉
国のエネルギー政策が石炭から石油へと転換する中で、石炭需要は次第に落ち込んでいった 。決定打となったのは、昭和44年(1969年)に発生した茂尻鉱坑内爆発事故である。この事故で19名が死亡し、出炭は中止された 。そして昭和45年(1970年)2月、雄別炭鉱の三山は正式に閉山し、同時に病院も閉鎖された。その時点での入院患者は、釧路市内に収容された。
閉山に伴い3737名の作業員が解雇された 。当時は高度経済成長期で他の求人も多かったため、多くは他の職へと移っていったが、閉山前に家族を含め約6000人の人口を抱えていた雄別地区は、再就職による転出のため、閉山後わずか1年で人口がゼロになった 。こうして、「消えたマチ」 が誕生したのである。
雄別炭鉱及び病院の歴史は、単なる施設の盛衰に留まらない。それは、一時代のエネルギーを支えた産業の栄枯と、それに翻弄された人々の生活の物語である。特に、1969年の茂尻鉱爆発事故と翌年の閉山による急激な終焉は、地域社会に大きな衝撃を与えた。炭鉱町とその中核施設であった病院が、徐々に衰退するのではなく、災害と経済的ショックによって突如としてその機能を停止し、住民が短期間で完全にいなくなったという事実は、民俗学的に見れば「未完結の物語」や「取り残されたエネルギー」といった観念を生み出しやすい。病院という、生と死、苦痛と治癒が交錯する場所が、活気に満ちた活動の中心から一夜にして空虚な抜け殻へと変わった劇的な変化は、喪失感を増幅させ、超自然的な物語が入り込む余地を創り出したと言えるだろう。9000人以上が暮らした町が約半世紀で消滅したという事実は 、この地に留まる霊魂の伝説が生まれる肥沃な土壌となった。
さらに、この病院が果たした二重の役割も、その心霊的評価に影響を与えている。雄別炭鉱病院は、地域住民にとって頼れる医療機関であったと同時に、炭鉱という危険な労働環境がもたらす悲劇を間近で見つめる場所でもあった 。日常的な病気や出産から、炭鉱事故による負傷者の治療、そして死までを扱い、さらには赤痢のような伝染病のための隔離病棟も擁していた 。このように、病院は地域社会の不安と悲嘆の集積地であり、治癒の場であると同時に、共同体のトラウマ、苦痛、喪失を記憶する場所でもあった。この二面性が、廃墟となった病院に強力な象徴的意味を与え、「怨霊が彷徨っていた」 といった物語が生まれる背景となっている。
D. 記憶の保存
現在、雄別炭鉱の記憶は、旧阿寒町にある古潭雄別歴史資料室によって保存されている 。これは、失われた共同体の歴史を後世に伝える重要な試みである。
雄別炭鉱ではガス爆発、落盤、崩落など多数の事故が起き、多くの死傷者が出ています。
過酷な状況で働く炭鉱では、怪我は日常茶飯事で起きていたことでしょう。
近代化産業遺産
雄別炭鉱病院は2007年より経済産業省が認定する近代化産業遺産に認定されています。
そのため、現在はかつてあった大量のいたずら書きが消され建物自体綺麗に整備されています。
国から認定された産業遺産ですので、施設へのいたずら書きや損壊は大きな罪となります。
実際に雄別炭鉱病院に数回足を運んでいますが、損壊された跡が見受けられました。
非常に残念な思いです。

心霊スポットして有名になったが、、、
雄別炭鉱は心霊スポットとして有名になりました。
雄別炭鉱での事故や事件が元となり、様々なメディアで取り上げられ、霊能力者の宜保愛子さんが、恐れた北海道で一番の心霊スポットでした。
令和の時代になり、残念なことに、雄別炭鉱病院はただの歴史を伝える建造物でしか無くなってしまいました、、、
余談ですが、雄別炭鉱病院に手術室はありますが、地下室や霊安室はありません。
構造上半地下のような部分はありますが、ただの物置です。
2007年に近代化遺産として認定されており、釧路市が管理を行なっています。
雄別炭鉱病院には機械警備が導入され、各種センサー、監視カメラなどが設置されています。
怪談の背景にある悲劇
雄別炭鉱病院跡にまつわる数々の怪談は、その場所が経験してきた悲劇的な歴史と分かち難く結びついています。炭鉱という産業自体が持つ危険性、閉鎖された医療施設という特殊性、そして過去の労働問題などが、心霊現象が語られる土壌を形成しています。
A. 炭鉱の危険:事故と死者
石炭採掘は本質的に危険な労働であり、雄別炭鉱も例外ではありませんでした。操業期間中、落盤、ガス爆発、浸水など、数々の事故が発生し、多くの犠牲者を出した記録が残っています。昭和30年(1955年)にはガス爆発により「多数の犠牲者」が出たとされ、昭和44年(1969年)の茂尻鉱坑内爆発事故では19名が亡くなっています。さらに古い記録では、昭和8年(1933年)2月に大祥内坑でガス爆発事故が発生し、5名が死亡したとあります。
炭鉱病院は、これらの事故で負傷した坑夫たちの治療や、亡くなった人々の検死、一時的な安置といった役割を担っていたと考えられます。その扉を通過した苦痛と死の総量は計り知れず、それが場所の「霊的な重さ」を増していると解釈できます。近隣の映画館が事故後の遺体収容に使われたという話もあり、共同体の空間が死とトラウマに深く結びついていたことを示しています。
B. 隔離病棟:疾病と絶望
雄別炭鉱病院には、赤痢のような伝染病に対応するため、18床の隔離病棟が併設されていました。歴史的に、隔離病棟は恐怖と苦痛、そしてしばしば死と結びつく場所であり、一般の病棟や地域社会から隔絶されていました。このような状況下で亡くなった人々の魂は、安らかに眠ることができず、この世に留まると信じられることが多いです。ある資料では、特定の出来事(おそらく空襲、が雄別地区での空襲に言及しているため)の際には入院患者は「全員無事であった」と記されていますが、これは隔離病棟が長年にわたり運営される中で、疾病によって亡くなった人々がいなかったことを意味するものではありません。
C. 強制労働と無縁仏:歴史の暗部
雄別炭鉱の歴史には、さらに暗い層が存在します。それは、朝鮮人労働者の存在と、彼らが置かれた過酷な状況です。記録や証言によれば、戦時中から戦後にかけて、多くの朝鮮人労働者が雄別炭鉱で働き、事故や劣悪な労働条件により命を落としました。
資料によれば、昭和17年(1942年)12月6日には雄別茂尻鉱で出水事故があり、死者7名のうち朝鮮人2名が含まれていました。また、昭和18年(1943年)7月13日にはガス炭塵爆発で死者5名のうち朝鮮人2名が犠牲となりました。別の情報源では、昭和20年(1945年)8月から昭和21年(1946年)12月までの間に116名の朝鮮人労働者が死亡したという記録が示唆されています。さらに、昭和27年(1952年)10月に死亡した金在順(キム・ジェスン)氏の遺体が、病院の裏に他の死亡者と共に埋葬された可能性があるという証言も存在します。これは、病院の敷地内に無縁仏として埋葬された人々がいた可能性を直接的に示しています。
昭和51年(1976年)に朝鮮人犠牲者のための慰霊碑が建立され、現在も慰霊祭が続けられていることは、この悲劇的な歴史を記憶し、犠牲者を追悼する努力が行われていることを示しています。しかし、別の炭鉱の慰霊碑では、朝鮮人・中国人労働者の名前が含まれていないようだと指摘されており、完全な承認が遅れたり、不十分であったりした可能性も示唆されます。
病院の裏に遺体が埋められたという話は、特に無念の死を遂げた霊や、正当な埋葬を受けられなかった霊魂が彷徨うという怪談を生み出す強力な触媒となります。
雄別、特に病院が背負うトラウマは単層的ではありません。日常的な炭鉱事故、1955年や1969年の大爆発のような大災害、隔離病棟での伝染病による死、そして朝鮮人労働者を中心とする強制労働と、それに伴う死や不適切な埋葬の可能性といった、複数の悲劇がこの地に刻まれています。民俗学的信仰において、それぞれの悲劇は「安らげない死者」を生み出す可能性を秘めています。これらの悲劇が一点に集中する時、その場所の霊的な、あるいは象徴的な重みは複合的に増大します。病院は、これらの多様な苦しみの結節点となります。「怨霊が彷徨っていた」という表現は、単一の原因によるものではなく、多くの源泉から湧き出る悲嘆の結果かもしれません。特に、強制労働者のように、適切な儀式や承認なしに亡くなった人々の死の未解決性は、怪談を生み出す上で特に強力な要素となります。
さらに、朝鮮人労働者の歴史、彼らの死、そして病院裏への埋葬に関する証言は、歴史的に周縁化されたり、十分な認識を得られなかったりした可能性のある集団の苦しみを浮き彫りにします。多くの民俗伝統において、不正に死んだ者、忘れられた者、あるいは適切な埋葬を受けなかった者の霊は、この世に留まりやすく、騒動を引き起こすとされます。病院が一部の労働者にとって最後の場所であり、また他の人々にとっては埋葬地であったかもしれないという事実は、これらの人々の「未解決な」霊的エネルギーの焦点となります。怪談は、部分的には、この対処されていない歴史的トラウマに対する無意識の社会的認識や現れであるかもしれません。「幽霊」が忘れられた人々に声を与えているとも解釈できます。謎の霊安室や説明のつかない気配は、民俗学的にこれらの認識されなかった死者と結びついている可能性があります。
しっかりと外観の残る雄別炭鉱病院
北海道釧路市阿寒町雄別。
北海道を代表する廃墟でもある、雄別炭鉱病院跡。
周囲は完全に自然に囲まれており、エゾシカやヒグマなど野生動物が頻繁に出没する地域です。
実際に現地には野生動物の足跡、糞などの形跡が多数見られます。
当然ですが、現地に行くにはヒグマ対策は必須です。
何度か雄別炭鉱周辺に足を踏み入れているが、雄別炭鉱周辺は独特の匂いが充満している。
魚の腐った様な匂いで、具合が悪くなる様な悪臭が漂っている。
炭鉱跡から、化学物質が漏れ出し、周囲の川にでも流れ出ているのだろうか、、、
そう思っていたが、調べてみると現在近隣に肥料工場があるらしいです。
雄別炭鉱はひと気のない山奥にあるが、唯一近隣に謎の工場があり煙を上げて稼働しているのは目撃しています。
「こんな場所で仕事している人がいるんだ、、、」
と思いながら横を通り過ぎましたが、多分あそこが匂いの原因なんだと思います。
雄別炭鉱病院のレイアウト
自然に囲まれた地域で、かつてあった街ごと自然に還る中、しっかりと形が残る雄別炭鉱病院。
病院の建物は全面の道路に沿って一直線に伸び、中央部分に入り口玄関があります。
雄別炭鉱病院は主に一階が外来用の診察室、手術室が配置され、2階は主に入院患者用の病室だった様です。
中央部分のみスロープで3階まで上る事が出来て、3階フロアからは屋上に出られます。
雄別炭鉱病院の中央から廊下で繋がった奥側に、主に従業員が利用していた炊事室・食堂・更衣室ブロックがあります。
雄別炭鉱病院の正面から見て右の方向に、赤痢流行時に増設された隔離病棟がありました。
既に隔離病棟の建物はなく連絡通路のみが残されています。
雄別炭鉱病院外観



細長い建物のそれぞれの端にも出入り口があります。
画像は向かって左端の出入り口。
逆側の端の出入り口は隔離病棟へと繋がっていました。
雄別炭鉱病院螺旋スロープ

雄別炭鉱病院の左右に伸びたレイアウトの中央、正面玄関の奥に位置する半円状の螺旋スロープ。
この雄別炭鉱病院の象徴的なそのスペースは、当時の技術としてはなかなか最先端であったようで雄別炭鉱病院設計時に入念に模型を作った上で建設されたようです。
今はもうガラス割れ散ったそのスロープから見える、屋外に広がる大自然は今なお美しい。
自然に帰りつつある雄別炭鉱病院の姿は、逆に今の方が美しいのかもしれません。





雄別炭鉱病院トイレ


雄別炭鉱病院1階
主に病院の外来用の受付、診察室があった雄別炭鉱病院1階。
手術室・X線室・薬局・外科・内科・婦人科・院長室・実験室などがあった様です。









手術室

中央には手術台が設置されていた丸い跡が残る
ちなみに雄別炭鉱病院の手術室は正面入り口から入って1階の左側の奥です。
その上の階の同じ位置の部屋は分娩室だった様です。
隔離病棟

かつては隔離病棟もありましたが、現在はその建物は残っていません。
正面入り口から向かって建物の右側に建っていました。
現在は通路のみが残っています。

雄別炭鉱病院2階
主に入院患者用の病室があった、雄別炭鉱病院2階。
その他に配膳室、小児科、分娩室等があったようです。











雄別炭鉱病院3階



雄別炭鉱病院 管理棟
雄別炭鉱病院の本棟から渡り廊下を行った先にある、炊事室・食堂・看護婦更衣室。
主に職員が利用していたスペースがまとまってあります。


雄別炭鉱 病院跡の詳細情報
所在地:北海道釧路市阿寒町雄別
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