史跡・遺跡・廃墟記事

雄別炭鉱とは何なのか?

雄別炭鉱記念碑 史跡・遺跡・廃墟

今なお残る雄別炭鉱の歴史の証明

北海道、釧路市街と十勝地方の中間にある山々。
かつて、そこにはいくつもの炭鉱街が存在していました。
現在は、ほとんどの街は消え去り、自然へと還っています。

雄別炭鉱とは、雄別にあった炭鉱の単純にその場所を表すのと同時に、それを運営していた雄別炭鉱(株)を表すものでもあります。

北海道釧路市から十勝地方にかけての巨大な炭鉱地帯。
一般的には一括りに『雄別炭鉱』と呼ばれていますが、その範囲は広大でいくつかのの地域に分かれていました。
十勝の浦幌町の端にあった、浦幌炭鉱
浦幌炭鉱から東に向かい釧路の地域に入り、尺別炭鉱
さらに東に向かい、上茶路炭鉱
一番東に位置し、釧路寄りにあったのが雄別炭鉱です。

今雄別の街を訪れると、本当にただの森の中なのです。
今の現状を見て、ここにかつて街があったとは誰も思わないと思います。
そしてその街も、誰もが想像するよりも、大きな街であったのです。
雄別炭鉱跡地は文字通り、街が消えて自然に還った場所なのです。

雄別炭鉱
森の中を歩くと、足元に人工的な何かが現れる。
それだけが、かつてここに街があったしるし。
森に埋もれている階段

近代化産業遺産

雄別炭礦跡は経済産業省が認定する近代化産業遺産(北海道石炭)に登録されています。
登録認定されているものは以下のものになります。
雄別炭礦跡全域
雄別炭礦鉄道跡
収集物
雄別炭礦鉄道車両 ( C1165号 )
雄別炭礦鉄道車両 ( 8722号 )

雄別炭鉱の歴史

1889年 北海道の調査で、雄別、尺別地域の石炭を発見
1918年 北日本鉱業(株)により尺別炭坑が開坑
1919年 北海炭鉱鉄道(株)が雄別炭鉱の開坑に着手 開坑作業と鉄道の敷設を行う
1924年 三菱鉱業(株)が北海炭鉱鉄道(株)を買収し、子会社として雄別炭坑鉄道(株)を設立
1928年 雄別炭坑鉄道(株)が北日本鉱業(株)から尺別炭坑を買収
1935年 雄別炭坑鉄道(株)が茂尻炭鉱(株)から茂尻炭鉱(赤平、石狩炭田)を買収
1936年 雄別炭坑鉄道(株)が大和鉱業(株)から浦幌炭鉱を買収
1938年 雄別炭鉱が開坑
1942年 尺浦隧道(尺別炭鉱、浦幌炭鉱間のトンネル)が完成
1954年 浦幌炭鉱閉山
1959年 雄別炭坑鉄道(株)が分離し雄別炭鉱(株)と雄別鉄道(株)に
1969年 茂尻炭鉱でガス爆発による死亡事故発生 人離れが起き茂尻炭鉱は閉山に至る
1970年 雄別炭鉱(株)の倒産による全ての炭山の閉山

今も残る雄別炭鉱の施設

2021年度以下の施設の状況を確認しました。

雄別炭礦病院跡

雄別商事購買部

雄別炭鉱職員倶楽部

ガソリンスタンド跡

雄別炭鉱 総合ボイラー煙突跡

雄別炭鉱煙突跡
雄別炭鉱 総合ボイラー煙突跡

各所に存在した、効率の悪い小型ボイラーを集約するために製作された大型ボイラー用の煙突。
1957年に完成し、高さは50.8m。
雄別炭鉱で出た、売り物にならない石炭を燃やし、雄別市街の浴場や暖房用に蒸気を送っていた。
この煙突の西側に雄別炭鉱の選炭場があった。

運搬トロッコ用 橋脚

雄別炭鉱 運搬トロッコ用 橋脚
雄別炭鉱 運搬トロッコ用 橋脚
雄別炭鉱 運搬トロッコ用 橋脚
当時この周辺は機関庫、奥の山側には選炭場があった。
雄別炭鉱 運搬トロッコ用 橋脚

雄別鉄道雄別炭山駅2番ホーム跡周辺

雄別鉄道雄別炭山駅2番ホーム跡周辺
雄別鉄道雄別炭山駅2番ホーム跡周辺。
右側が駅の敷地。
雄別鉄道雄別炭山駅2番ホーム跡周辺
雄別鉄道雄別炭山駅2番ホーム跡周辺

その他の遺跡

雄別炭鉱 心霊スポット
雄別炭鉱の形跡
雄別炭鉱
いつのものでしょう?
雄別炭鉱
雄別炭鉱
雄別炭鉱
雄別炭鉱
雄別炭鉱

尺別炭鉱地区

雄別炭鉱(株)の尺別炭坑の周辺の様子。

上茶路炭鉱地区

雄別炭鉱(株)の上茶路炭坑地区。

ものすごく気になる、雄別炭鉱周辺での暮らし

雄別炭鉱の坑内従業員の求人情報

なんとなく、当時のこの辺りでの暮らしが分かる、雄別炭鉱の坑内従業員の昭和40年の求人情報を見てみました。

職種 採炭夫、掘進夫、仕繰夫、運搬夫
年齢 18~35歳の男子
学歴 高等学校卒業者以下
経験 未経験可能
身長 1.60米
体重 55 瓩
色力 色盲でない者
■労働条件
1日8時間(休憩1時間)
週休制(特殊休日 山神祭2日 盂蘭盆2日 労働祭1日 年末年始4日)
有給休暇 20日
賞与 年2回
■住居貸出
有配者には家を貸出(社宅料、衛生費、水道代込)月100円
家庭用石炭代 1トン400円(運搬費込、年10トンまで)
電気代 夏は30Kw冬は35Kwまで無料
■福利厚生
健保、失保、厚生年金、労災加入
退職金 3年以上勤務で有り
病院、体育、文化施設完備
映画60〜70円で見られる
鉄道利用料無料 釧路までの無料パスを支給
浴場費無料
■給与
月30,000〜45,000円
■赴任費用
本人と家族の汽車、バス代支給
引越し費用全額支給
引越し荷造り料として 3,000〜5,000円支給

物価が全然違うのでピンと来ませんが、月500円でほぼ住居費が足りてしまいます。
石炭代というのが謎で、生活の中で石炭をどのように使っていたのでしょうか?

実際の労働者の話が、昔の記事にあったのですが、炭鉱従業員に来たのは、農業が資金難で継続できなかったためで、実際の労働は、ほとんどが機械作業なので、農業をやるよりは全然楽だったようです。

物価に関しては、魚や野菜は釧路市と同等。
その他のものは購買で買うとかなり安いようです。

炭鉱の衰退と共に無くなっていった雄別の町ですが、住んでいた人にするとかなり良い街だったようです。
単身者にとっては周囲に何もなく娯楽の少ない場所。
仕事時間以外は暇で電車で1時間かけて釧路市街へ遊びに行く人も多かったようです。
こういうのは今も昔も変わらないですね😆
余談ですが、釧路駅から炭山駅の最終列車は20時21分でかなり早い時間でした。
それ以降の時間になると、タクシーで帰宅していたようです。

それよりもっと前昭和15年代の求人情報では
給与 1日3圓以上 月満勤で80圓〜

雄別の子供たち

雄別の子供たちは、大体の人が頭で浮かべる昭和の子供がそのまま当てはまる生活をしていたようです。
おかっぱの女の子と、坊主の男の子。
紙芝居に群がり、凍った川でスケートをする。
お祭りになると、大人も仕事を休み、街全体で楽しむ。
5月12日からの山神祭。北海道らしい8月7日の七夕まつり。盂蘭盆。
山車が走ったり、打ち上げ花火が上がったり、盆踊りや灯籠流しなど、どこにでもあった昭和の楽しみが雄別の街にもありました。

雄別小学校

1923年に炭鉱によって、私立の雄別尋常小学校として、開校。
1933年に村立へと移管。
1959年には全児童数1660人となった。
校庭にはかなり大きなプールなどもあった。
1970年閉校。

当時の人々の暮らし

上記動画は、現在では冬季立ち入り禁止になる上茶路地区にポツンと残っていた住宅です。
上茶路炭鉱が無くなってからは、この地域に建物を建てる人はいないと思うので、当時の炭鉱住宅の残りであると思われます。

街がなくなった理由

炭鉱のために出来上がった街であり、炭鉱と共に無くなっていきました。
多くの住民の住宅のほとんどが炭鉱住宅で、いわば会社の社員寮です。
言うなれば街全体が雄別炭鉱(株)の運営だったのです。
作り出された街は、山の中の孤島。
炭鉱街が消えた後に生活するような場所ではありません。
炭鉱がなくなり、街から人が離れていきました。

雄別炭鉱(株)は赤字決算が続き存続ができませんでした。
閉山へと至った1番の大きな理由は
「燃料として石炭が必要だったが、今は海外から原油を輸入した方が安い」

雄別炭鉱から掘り出された石炭の62%は電力用として使用されていた。
次いで、暖房用12%、工場用8.5%となっていた。

石炭を採掘するには、多額の費用がかかる。
穴を掘って、崩れないように支えて、穴の奥から掘り出す。
その環境を作り出すのは容易ではない。
設備費用が莫大。
そして、掘り出せる量も基本的には「運次第」。
目星をつけて、試掘を行なって、掘削に入りますが、どのくらいの量が掘れるかは実際に掘らなければわかりません。
かつて、黒ダイヤと呼ばれていた石炭の価格が、徐々に下がっていきます。
規模が大きくなるにつれ、設備投資費用が徐々に回収できなくなっていった。

2つ目の理由としては人材不足もあった。
坑内の事故が発生すれば、求人に対して人は集まらず、人材不足となる。

雄別炭鉱(株)の最後

1966年
赤字決算が続き始めた

1969年
9月の累積赤字は当時の物価で46億円
12月には期末手当(ボーナス)、翌月1970年1月には通常の給与の支払いができなくなった。

1970年
1月21日 雄別炭鉱株式会社は通商産業省に再建計画を提出。
2月11日 雄別炭鉱株式会社は労働組合に対し「再建不可能」を表明
2月27日 雄別炭鉱株式会社 雄別、尺別、上茶路炭山の閉山
2月29日 撤収作業が開始される
3月末の手形が落ちず雄別炭鉱株式会社 倒産となる
4月15日 雄別炭鉱鉄道の運行終了

閉山後

炭鉱労働者

雄別炭鉱株式会社の全社員3000人以上解雇。
閉山後3ヶ月以内での炭鉱住宅等の完全撤収を決定。
ほとんどの労働者は会社から支給された社宅である。

閉山時期は、日本経済は高度成長期が続いていた時期で、日本国内では人手不足が深刻。
炭鉱で働いていた人を目当てに、全国から好条件の求人が集まり、再就職率は90%。
雄別で働いていた人は、全国へと散った。

それとは逆に、釧路周辺の水産加工工場では深刻な人手不足となっていた。
釧路周辺の水産加工工場の主な人材は、炭鉱で働く夫の妻であった。
夫と共に多くの人が北海道を去ってしまった。

1970年。混乱の中、次々と消えていく街

雄別生協は倒産し2月27日倒産。

この地にいたのは、雄別炭鉱の社員だけではない。
雄別の街には個人商店もできていました。
ただ、人々がいなくなれば営業を続けることは難しい。
というかほぼ無理です。
雄別に住み着いた、炭鉱職員以外の人々は、補償もなく自費での引っ越しとなりました。

5月末で、阿寒町役場支所閉鎖。

雄別小学校5月30日廃校。
3月15日には炭鉱から送られていた蒸気の圧力が低下し、調理ができなくなり給食がストップしていた。

6月15日、雄別郵便局閉鎖。

跡形も無く消えた雄別の街

人々が消えゆく街。
物質として存在していた街の形すら残らなかった。

残った街は物質的にも解体された。
雄別炭鉱(株)の多額の借金を返済するため、金属や木材、使えるものは全て解体され売りに出された。
そのため、文字通り、街が無くなってしまった。

雄別炭鉱から残ったもの

中央に矢幡製麺所の看板がちらり

この地を自費で去った個人商店。
その中に今も残るお店がある。
雄別二区(雄別炭鉱病院の北側)にあった、矢幡製麺
現在の老麺やはたである。

雄別炭鉱閉山から生まれたもの

雄別炭鉱閉山で、周辺の街の人口も大幅に減少。
当時の阿寒町の人口の約半数が雄別炭鉱で働いていた。
人口減少に歯止めを立てるために、企業誘致が行われた。
音別町にロープメーカー、カネヤ製網 道東工場、大塚食品の釧路工場が生まれた。
国道38号線を走り、音別町を抜けるときに見る、大塚製薬工場の看板が生まれたのは雄別炭鉱の歴史の末だったのである。

雄別炭鉱の詳細情報

所在地:北海道釧路市阿寒町雄別

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