
三菱美唄炭鉱と運命を共にした沼東小学校
北海道美唄市。かつて石炭産業の隆盛に沸いたこの地は、時代の変遷と共に静寂に包まれ、往時の賑わいは遠い記憶の彼方に霞んでいる。その美唄市の奥深く、我路(がろ)地区と呼ばれる場所に、今や訪れる者も稀な廃墟が存在する。美唄市立沼東小学校、通称「我路円形校舎」。特異な円形のフォルムを持つこの学び舎は、閉校から半世紀近い時を経て、北海道でも屈指の心霊スポットとなった。朽ち果てた壁の内に潜むものは、果たして単なる風化の産物か、それとも人間の理解を超えた何かなのだろうか。
沼東小学校の起源は、1906年(明治39年)9月、盤之沢簡易教育所として児童数わずか20名で開校したことに遡る 。その後、1947年(昭和22年)に沼東小学校へと校名を変更 。この学び舎の運命を大きく左右したのは、近隣に存在した三菱美唄炭鉱の存在であった。炭鉱の好況は地域に未曾有の活気をもたらし、児童数も急増。これに対応すべく、1959年(昭和34年)には、現存する円形校舎が建設された 。ピーク時には総学級数29、児童数1570名を数えるマンモス校へと成長を遂げたのである。三菱美唄炭鉱と生命を共にし、国内石炭産業の衰退と共に、1974年3月の修了式をもって閉校。
学校の名称は時代と共に変わり、盤之沢簡易教育所からはじまり、我路尋常小学校・沼東尋常小学校・沼東国民学校と変わり、最終的な名称が沼東小学校となる。
現在では、円形校舎1棟と、体育館跡が残る。
その沼東小学校の校舎が建てらたのは1959年。
現在残るのは円形校舎1棟であるが、当時沼東小学校の校舎は2棟あり、それが湾曲した廊下でつながっていた。
上空から見ると沼東小学校の外形がメガネの様に見えたため、『メガネ校舎』と呼ばれていた。

沼東小学校の美しい円形校舎は廃墟アートへ
閉校から時を経た現在、かつての「めがね校舎」の一翼を担った西側の校舎(A棟)は解体され、東側のB棟のみがその姿を留めている 。しかし、その残されたB棟もまた、自然の容赦ない力に浸食され続けている。校舎は鬱蒼とした樹木に覆われ、建物の一部は崩落の危機に瀕し、床は抜け落ち、壁は剥がれ落ちている。特に1階部分は周囲の沢からの水が流れ込み、夏場は水没し、冬には厚い氷の床と化すという特異な状態にある 。この氷は場所によって透明であったり、気泡を含んで白く濁っていたりと、異様な美しさを湛えると同時に、訪れる者に底知れぬ冷気を伝える。

静かな森の静寂の中映し出される水鏡。

今見てもとても美しい校舎。
夏には生い茂る草木が校舎を飲み込まんとし、冬には雪と氷が支配する静寂の世界。季節ごとにその貌を変える廃墟は、訪れる者に強烈な印象を刻みつける。特に、水に沈んだ校舎や、氷に閉ざされた教室の光景は、非日常的であり、一種の終末的な美しさすら感じさせる 。しかし、その美しさの裏には、常に崩壊の危険と、何かが潜んでいそうな不気味な雰囲気が漂っている。このような場所は、過去と現在、文明と自然の境界が曖昧になった「リミナル・スペース(境界空間)」とも言え、超自然的な体験をしやすい環境とされる。朽ち果てていく建造物そのものが、見る者の心に不安や畏怖を呼び起こし、心霊現象を想起させる舞台装置となっているのだ。
我路円形校舎の心霊現象
沼東小学校の名が心霊スポットとして広く知られるようになった大きなきっかけの一つとして、霊能者・宜保愛子氏の発言が挙げられる。複数の証言によれば、宜保氏はかつてこの場所を訪れ、「霊がたくさんいる」といった趣旨の発言をしたとされている。この発言がテレビ番組などを通じて広まったことで、沼東小学校は一躍「出る」場所としての notoriety を獲得した。
沼東小学校で報告される怪奇現象の中でも特に多いのが、「声」にまつわるものである。誰もいないはずの校舎内で、子供たちの声や話し声、さらには校歌のような歌声が聞こえてくるという体験談が後を絶たない 。
沼東小学校の心霊譚を考える上で無視できないのが、その設立母体とも言える三菱美唄炭鉱の歴史である。炭鉱労働は常に危険と隣り合わせであり、過去にはガス爆発事故などで多くの犠牲者が出ている 。1941年(昭和16年)3月18日の三菱美唄炭鉱における爆発事故では死者・行方不明者177名、1944年(昭和19年)の美唄炭鉱での爆発事故では死者・行方不明者109名という甚大な被害が記録されている 。
心霊スポット 『神隠しにあった少女』

沼東小学校には、赤いランドセルを背負う少女の霊が出るという。
沼東小学校の幽霊は昭和の時代、多くのメディアで取り上げられた。
霊媒師が訪れ、少女の霊を成仏させようとしたが、負のエネルギーが強すぎて、慌てて逃げ出したというエピソードも残っている。
沼東小学校の校舎は非常に美しく、日本国内でも数少ない円形校舎が特徴。
最上階天井には、ガラスブロックが埋め込まれ、そこから差し込む日光が非常に美しい。
むしろ、廃墟になりその美しさが引き立てられている。
その様な希少で美しい校舎のため、多くの廃墟アート好きなカメラマン達が訪れていた。
ただ、ここを訪れた者は何らかの異質な体験したと話す。
写真に、白い靄や光の玉が移り込む。
白い人の影が写真に写っている。
窓から覗く、少女の姿が見えた。
赤いランドセルの少女が立っていた。
多くの人の話に出てくる少女の霊
実は昭和の時代、沼東小学校がまだ活気に溢れている時期におこった事件が関与している。
とある日の授業中、沼東小学校に通う一人の少女が、休み時間に姿を消してしまった。
何か理由があって下校してしまったのか、教師はそう思いながらその日の授業を終えた。
教師は確認のため、少女の家と連絡をとるが、少女は家には帰っていないという。
教師は慌てて他の教師たちと通学路や周辺地域、学校の周囲を探し回るが見つからなかった。
やがて夜になった。
少女は帰らない。
警察に通報し、警官と教師や地域住民も協力し夜通し捜索が行われたが、それでも少女は見つからなかった。
当時北海道内で拉致事件が流行していたため、不審な人物を見なかったか捜査が行われた。
真実は田舎の少女を狙った誘拐事件なのかもしれないが、姿を消したタイミングが帰宅時間ではなく、授業が行われていた時間帯のため、その可能性は少ないと見られた。
そして、そのままその少女は帰ってこなかった。
何の手がかりも無い。
多くの人は『神隠し』事件としてこの事を語り継いでいる。
この事件は、この地域の子を持つ親や子供達を恐怖に陥れた。
廃墟となった沼東小学校に出る少女の霊は、その神隠しにあった少女だと言われている。
少女の霊は、今は美唄国際スキー場のレストハウスとして使われている美唄市立沼東中学校の体育館跡でも見かけられている。

美唄三菱鉱山が閉山しゴーストタウンへ
1973年三菱美唄炭鉱が閉山し、多くの人々がこの地を去っていった。
ゴーストタウンとなった美唄の奥地一帯の区域。
周囲一帯が怪奇現象が多々起こる、心霊スポットとなっている。
また、この場所がそういう人を呼び込むのか、周辺での自殺者も多い。
沼東小学校の体育館で首吊り自殺、美唄国際スキー場の駐車場で男性が自動車の排気ガスでの自殺、周辺の橋で飛び降り自殺も起きている。
災いの地と霊

美唄市、旧名「沼貝町」。
沼がつく地名は、水による災害、水害や土砂災害の多い地域につけられる地名である。
実際に美唄ダムから始まる、我路周辺の河川は土砂災害の特別警戒区域にも含まれている。
災いの地である、美唄の奥地。
現地に入ると、独特の空気感が漂い、霊感が全く無くとも体に緊張感が走る。
実際に目撃されている、不思議な存在は沼東小学校の赤いランドセルの少女だけでは無い。
美唄三菱炭鉱病院跡近辺にはおびただしい量の霊が目撃されており、美唄三菱炭鉱病院跡周辺の国道は走行すると、霊感の無い人でも人の声が聞こえるという。
また、美唄我路地区の中心を通る道道135号線走り旧市街地を抜けた一番奥にある美唄ダムには女性の霊が出るという。
美唄三菱炭鉱では、大きな事故が相次いでいました。
1926年、堅抗でのガス爆発で39人が死亡。
1941年3月18日、炭坑内で落盤とガス爆発で死者・行方不明者 177人。
1944年ガス爆発事故で109人死亡。
死亡したのは日本人だけでは無く、朝鮮半島から連れてこられた労働者も多かった。
強力な、災いの地の呪い。
美唄市立 沼東小学校の残された校舎
校舎跡

外壁に残るシャッターは、かつてあったもう一棟とをつなぐ連絡通路のもの。
連絡通路と、もう一棟の校舎は撤去されてしまっている。
建築当時、美唄市内の他の小学校が木造だった時代に沼東小学校には自動で動くシャッターが設置されていた。


周囲はヒグマ、エゾシカの生息地。
泥の上には野生生物の足跡が多数残る。









体育館跡



夕闇が迫る頃、あるいは冷たい月の光が差し込む夜更け、風が円形の壁を撫でる音は、すすり泣きにも、遠い日の校歌にも聞こえるかもしれない。我路円形校舎は、これからもその謎めいた静寂の中で、訪れる者の心に、忘れがたい恐怖と戦慄を刻み込み続けるだろう。
美唄市立 沼東小学校跡の詳細情報
所在地 | 北海道美唄市東美唄町 |
携帯電話 | 圏外 |
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