旧狩勝隧道とは?

北海道十勝地方の新得町と南富良野の間にある狩勝峠。
現在は国道38号線が通っているが、昔は国道38号線の道に沿う位置に鉄道が通っていた。
そして、現在でも狩勝峠山頂のすぐ下に、旧狩勝隧道と新内隧道が残っている。
これらの隧道は鉄道のために掘られたトンネルである。

史跡 旧 狩勝隧道・新内隧道
官設鉄道十勝線(旧狩勝線)は、北海道開拓と軍事上の必要性から、明治34年4月、落合一新得間27.9キロメートルが着工された。
2か所の隧道(トンネル)掘削工事を含め、その鉄路建設工事では、枕木の数ほど犠牲者が出たと伝えられている。
総工費は、狩勝除道(954メートル)が、34万4000円、新内路道(124メートル)は4万2300円を要し、トンネルの掘削工事は、固い岩盤と湧水のために困難を極め、ついには人柱まで建てて工事の進歩を図ったとも語り継がれている。
明治38年1月隧道は完成し、明治40年9月8日十勝線(旭川一帯広間)は開通をみたのである。
以来、十勝線は釧路本線、根室本線と名称を変えながらも、道央と道東を結ぶ幹線としての地位を歩んだのである。
しかし、冬季間道内の漏水は水結するなど内壁の老朽化も激しく、しかも、千分の二十五という急配が連続する同線は、経済の発展とともに、旅客・貨物輸送の効率化のため、昭和41年10月1日開通の新狩勝線にその役目を譲ることになり、60年の歴史を閉じたのである。

尋常じゃない数の人柱

旧狩勝隧道はタコ部屋労働によって造られたトンネルであった。
日本全国から金に釣られた多くの労働者が、海を超えて運ばれてきた。
監禁、監視下に置かれ、日々過酷な肉体労働が強要された。
過酷な環境により、『枕木の数ほど犠牲者が出た』。
そしてその死体は人柱となって埋められている。
この話は北海道内に存在した他の多くのタコ部屋労働者の耳にも入っていた。
タコ部屋労働の経験を身内に向けて送った手紙『石島福男書簡』にもその内容が掲載されている。
タコ部屋労働の実情と、石島福男書簡の詳細は以下のページにて。

そこに留まる霊

この場所は、新内隧道と旧狩勝隧道が立て続けにある。
その間の森の中や隧道内に佇む男が多く目撃されている。


また狩勝隧道の奥の方から、唸る様な低い声が聞こえたとの経験談も多い。
誰がどの様に考えてもその姿の主は、今も隧道の下に眠る多くのタコ部屋労働者の死体であろう。

埋められた記録はあるが、掘り起こされた記録はない。
過酷な路線だった狩勝隧道

官設鉄道十勝線(旧狩勝線)狩勝隧道(新得側)
馬踊形の断面をした煉瓦造による単線隊道です。
明治34(1901)年、海抜644mの狩勝峠直下の狩勝隧道 (ずいどう)の工事が着手されました。
工事は、掘削地の岩質が一定せず、また固い岩層に突き当たったり、予想を超えた湧水にはばまれ1日30cm〜90cmしか掘削できない手作業の難工事で開通までに3年半を要し、明治38 (1905)年1月に完成しました。
その後、大正11(1922) 年に36mの延長工事があり954mになりました。
また、随道内は25/1000という急幻配が続くため機関士は排煙と熱気に苦しめられ続けました。
その隧道の環境改善策として昭和23 (1948) 年11月に遮風用の垂れ幕が新得側出口に設置されました。
操作は上り列車後部が魔道に入りきったと同時に入り口上部に引き上げてある厚手のシート造りの垂れ幕 (ウエイト付き)を瞬時に下げて入り口を塞ぎます。
これにより排煙を列車後部に吸い寄せて運転室に排煙などがまとわりつくのを防止する装置です。
24時間体制で保線係員が操作していました。
昭和41 (1966) 年10月1日、落合一新得間の新線への切替で廃止されました。

狩勝隧道での事故
当時、狩勝隧道を蒸気機関車で走り抜けるのは、かなり過酷なものであった。
山頂へと向かう登り方向は、トンネル内の上り勾配による蒸気機関車の速度低下と排煙・排熱の増加。
その熱による上昇気流の発生と、列車自体の移動による気流の変化で、大量の煤煙・蒸気・熱が機関車にまとわり付く。
車両の周囲は気温50°C以上、湿度100%という高温高湿であり、それと同時に酸素不足による窒息の危険も持ち合わせていた。
昭和6〜16年の10年間に起きた狩勝隧道内の蒸気機関車乗務員事故は36名。
うち2名は死亡した。
1939年に起きた事故
1939年(昭和14年)8月に起きた事件では、列車が狩勝隧道を通過中に乗務員が酸欠状態に陥り、機関士2名、機関助士2名、機関士見習1名の乗員5名全員が意識を失った。
そのまますぐ先にあった停車するはずの、狩勝信号場を通り過ぎた。
その後、機関士見習が意識を取り戻して制動弁を操作。
直後に本人は再び気を失ったが列車は落合駅構内で停止し大事故を免れた。

多くの抗争を呼んだ

過酷な狩勝トンネルの列車運行を巡り労働争議が起こった。
泥沼化した抗争により、逮捕者や自殺者までもが発生した。
まりも号脱線事件
1951年(昭和26年)には『まりも号脱線事件』が発生した。
釧路発函館行きの上り急行『まりも』号(C57形蒸気機関車牽引、客車9両、D51形蒸気機関車推進)が、新得駅を出て狩勝峠にさしかかったところで脱線した。
乗客470名に怪我はなく、機関士2名が軽傷を負った。
調査の結果、人為的にレールが切断されずらされていた事が判明した。
警察による関係者の大規模な聞き取り調査を行ったが、犯人は見つからぬまま未解決事件となった。

新内隧道
新内隧道は狩勝隧道に向かうと手前側にある短いトンネルである。
現在もトンネル内に湧水が発生しており、それによって北海道内でも絶滅危惧種にも選ばれた希少なヒカリゴケが自生。




トンネル脇の道を行けばすぐに新内隧道の裏側に到着する。
トンネルはそれほど長くはない。
内部は崩落しており、現在はそれぞれの出入り口は繋がっていない。
裏側内部にはたくさんのコウモリが飛び交っている。


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