彷徨う大多数の魂
北海道の、強風で有名な襟裳岬。
百人浜は襟裳岬から続く海岸に存在する。
海岸を見渡せる位置に、百人浜展望台があり、えりも周辺の海岸沿いが一望できる。
ただ、この場所は観光気分で訪れる場所では無い。
流れ着いた百体の遺体
『百人浜』という名前の由来。
その百という数字は、死んだ人の人数を表している。
1816年(文化13年)の冬。
乾いた風が吹き荒れるえりも沖で、南部藩の大型船が難破した。
冷たい海に放り出されたが、冷たい北海道の海。
多くの人が命を落とした。
なんとか、陸地にたどり着いた者もいたのだが、当時は民家も無いえりもの海岸。
生き残ったわずかな人々は、生き延びる術を探すものの、飢えと寒さで命を落とした。
その後、多くの遺体がこの浜に流れ着いた。
その犠牲者の数が100人以上もいたことから、その悲劇を後世に残すために、百人浜の名前がつけられた。
現在、駐車場の横に『観音堂』と供養塔、『一石一字塔』がある。
一石一字塔
一石一字塔 碑文解釈
北海道の東南にある百人浜は、鉄のように硬い鋭い岩礁がそびえならび怒涛は山に向かうような大波であります。
海霧は終始沸き出て周囲を覆い隠し、そのため船乗りたちもたちまちのうちに方向を見失ってしまうことが多く、このために遭難して溺れ死ぬ者が最も多いと言われている所であります。
或るときは1日に数隻も遭難することもあり、そのことは珍しいことでも不思議なことでもありません。
八谷左吉は、南部の出身の人ですが、幌泉支配人として長い間この海難事故に心を痛めていたのです。
丁度、文化二年(1806)に時の幕府の命令を受けて私は、初めて仏教を広める為に、この地方に赴任して参りました。
この地方の住民たちは、八谷左吉と同じく皆心を痛めていたので、私に妙法連華経第十六品如来寿量品(約2400字数)のお経を一つの石に一字づつ写経して追薦の供養を行なって欲しいと請われたのであります。
様似の勤番所詰合人である南部藩士 田中定右衛門氏は、非常に喜んで法要を護衛することになりました。
その時大変に不思議なことが突如起こったのであります。
法要の最中に、昔、沈没していた船の帆柱がにわかに浮き上がって岸辺に漂着致しました。
驚いて帆柱をうやうやしく運んできて法要の席に奉ったのであります。
ああ信仰の心、仏に御心に達したことは明らかで疑う余地もなく、私はこのことを喜んで思わず合掌し、たたえて詩を詠んだのでありました。
御心の御教えいよいよ整い熟しその御心は東北海道に布教伝播されました。
溺死した者の霊魂永い間さまよいしその苦労今は暁の風のごとく吹き去りて自ら戸を開けるように悩みが急に取り除かれた感にうたれにわかにめでたい感じが全身を走り抜け、堰を切ったように涙がとめどなく流れ碑をぬらしてしまいました。
仏の御教えによる供養の功徳は永久に動くことなく、直ちに弥勤菩薩が説法する衆生済度の法会場に至り一字一字は金の仏を現し教化弘法のために果てしなく寄与することでありましょう。
彷徨う大多数の魂
百人浜は心霊スポットとして有名なのだが、実際に霊を目撃した人は少ない。
反面、この場所で特殊な経験をした者が非常に多い。
叫ぶ男の声が聞こえる、数人の男の話し声が聞こえる、海岸を歩いていると後ろからついてくる人の気配がする、足音が聞こえる。
百人浜を訪れた帰り道、後ろに人の気配がしても決して振り向いてはいけない。
姿の見えないその者は、溺死の苦痛を救ってくれるものと思い込みそのまま、ついてきてしまう。
そのまま、除霊などを行わずにいると、それが怒りへと変わり、その者を不幸に陥れる。
そのため、百人浜でなんらかの経験をした者は後日、身の回りでよくない事が起きたという話が溢れている。
2度場所を移動したキャンプ場
百人浜にはキャンプ場がある。
海岸沿いから離れ、森に守れる様にある百人浜オートキャンプ場。
前は、もっと海岸よりに存在していた。
百人浜キャンプ場は場所柄、オフシーズンにはそれほど混み合うキャンプ場では無かった。
他に利用客がいないのにも関わらず、深夜に、テントのそばを大人数で歩く足音が聞こえる。
朝になると、テントについた朝露にたくさんの手形が残っている。
夜中に急に何者かにテントを揺さぶられた、テント内で怖くなって固まっていると、テントに映るその人影はゆっくりと離れていった。
その様な怪現象が多発するために、場所を移転するが、移転先でも同様の現象が起きた。
その後、再度移転をしたが、現在の場所でもそれは発生するという。
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